少年 時代 歌詞。 井上陽水『少年時代』

宇多田ヒカル

少年 時代 歌詞

との対比 この曲はと、ふたつのメロディからできています。 そして、そのふたつはそれぞれ違う世界を描いています。 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様 最初のはこんな感じ。 そして次のは、 夏まつり 宵かがり 胸のたかなりに あわせて 八月は夢花火 私の心は夏模様 こんな感じです。 単語も文章のつくりも音韻もそっくりですね。 最後のにいたっては、上記2つのを組み合わせ直した構成になっています。 は3つありますが、どれも同じ内容を歌っているんだと予想できますね。 、というわけです。 一方で、はそれとはまたぜんぜん違う感じ。 夢が覚め 夜の中 永い冬が 窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき ひとつめのを引用してみました。 先ほど引用したとはまったく毛色の違う単語がたくさん登場します。 例えば「冬」。 には「夏」が出てきましたが、は「冬」がでてきます。 こんな風に対照的な単語を探してみると、案外たくさん見つかるので驚きます。 夏 冬 青空 (日中を想起させます) 夜 風 窓を閉じて かがり 影 って感じ。 ここまできれいに符合するなら、それはもう狙ってやっているのだとしか思えません。 とは、対照的な歌詞のないようになるように構成し尽くされているみたいです。 「は」に注目。 さて、私が注目したのは、「は」です。 で、『少年時代』に戻るわけですが、この曲の歌詞にはいくつかの「は」があります。 そしてその「は」は、どれも連の最後にあります。 つまり、連の最後に「は」を持ち出して、その連がなにに関することだったのかを教えてくれる、という構成になっているのです。 たとえば、最初のを再度引用してみましょう。 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様 最後の行に「私の心は夏模様」とあります。 この文は、「私の心」について記されたもので、私の心が夏模様であることを示している部分です。 こんなことはわざわざ解説しなくても、日本語の文章が読める人なら迷ったりしないと思います。 で、大事なのはそこではなくて、それがこの連の最後にあるということです。 こんなことが書いてあるから、 この連の全体が、実は「私の心」について解説したものなのではないかと思うことができるってわけです。 夏が過ぎて、風あざみで、だれかのあこがれにさまよっていて、青空に残されている私の心が夏模様なのだと歌っている、ってわけです。 ふだん、私たちはたとえば友だちとしゃべっていて、いちいち自分の状況をこうして説明したりはしません。 私の心は夏模様だったよ!とか言わないでしょふつう。 夢は想い出のあとさきだとか絶対言わないわけです。 ふつうはそんなに、自分自身を突き放して解説したりすることはないのです。 でも、 この曲では自分自身の心を「夏模様」だと解説してくれています。 ここから、どんなことがわかるでしょうか? 私は、ここにとても切なさを感じました。 「私の心は夏模様」って解説してくれているのは、主人公が自分のことを突き放しているからです。 どうして突き放しているのかというと、それは、長い時間が経ったから、かな?と私は思いました。 主人公はもう少年時代から遠く離れた大人になって、懐かしい少年時代を懐かしんでいるのかな?と思ったのです。 がそうだとすると、はそれとは対照的な時制になるはず。 が過去なら、は現在になるはずですね。 それをさっきの表に組み込むなら、こんな感じになります。 夏 冬 青空 (日中を想起させます) 夜 風 窓を閉じて かがり 影 過去 現在 つまりこの曲、 で昔に思いを馳せたあとで現実に立ち返り、またで夢の世界へ旅立ったあとに再びで元に戻り、最後にもう一度で過去を振り返って、そのまま曲が終わる、という構成になっているのです。 すごいなそれ。 そして私は最後に、一人称に気づいちゃったのでした。 この曲の一人称は「私」です。 男性が「私」を一人称として使うのは、その人が十分に大人で、オフィシャルな場で自分を示したいときだけだと思います。 主人公はきっと、大人になったのです。 少年時代を思い返す時でも、その大人になった自分自身が歌詞の端からついにじみ出てしまいます。 でもだからこそ、遠く離れてしまった少年時代とのギャップが際立つのでしょう。 そしてだからこそ、少年時代が懐かしく思えるのでしょうね。 というわけで、『少年時代』でした。 一人称については、本当は違う読み方も考えたのです。 たとえば主人公は本当は女性で、少年のように振る舞うことができていた昔を懐かしんでいる、とか。 それでも十分にキレイに筋は通るのですが、女性である必然性も今ひとつ見当たらないので、今回は男性が主人公ってことにしてみました。 主人公と歌い手の性別についてはのときに考えたことがあるので、よければどうぞ。 宿題にしていた『』は次回かその次に持ち越しにしたいと思います。 読めそうな夏の曲がまだあったらそっちに浮気します。 ごめんなさいませ…。

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井上陽水 少年時代 歌詞

少年 時代 歌詞

との対比 この曲はと、ふたつのメロディからできています。 そして、そのふたつはそれぞれ違う世界を描いています。 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様 最初のはこんな感じ。 そして次のは、 夏まつり 宵かがり 胸のたかなりに あわせて 八月は夢花火 私の心は夏模様 こんな感じです。 単語も文章のつくりも音韻もそっくりですね。 最後のにいたっては、上記2つのを組み合わせ直した構成になっています。 は3つありますが、どれも同じ内容を歌っているんだと予想できますね。 、というわけです。 一方で、はそれとはまたぜんぜん違う感じ。 夢が覚め 夜の中 永い冬が 窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき ひとつめのを引用してみました。 先ほど引用したとはまったく毛色の違う単語がたくさん登場します。 例えば「冬」。 には「夏」が出てきましたが、は「冬」がでてきます。 こんな風に対照的な単語を探してみると、案外たくさん見つかるので驚きます。 夏 冬 青空 (日中を想起させます) 夜 風 窓を閉じて かがり 影 って感じ。 ここまできれいに符合するなら、それはもう狙ってやっているのだとしか思えません。 とは、対照的な歌詞のないようになるように構成し尽くされているみたいです。 「は」に注目。 さて、私が注目したのは、「は」です。 で、『少年時代』に戻るわけですが、この曲の歌詞にはいくつかの「は」があります。 そしてその「は」は、どれも連の最後にあります。 つまり、連の最後に「は」を持ち出して、その連がなにに関することだったのかを教えてくれる、という構成になっているのです。 たとえば、最初のを再度引用してみましょう。 夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様 最後の行に「私の心は夏模様」とあります。 この文は、「私の心」について記されたもので、私の心が夏模様であることを示している部分です。 こんなことはわざわざ解説しなくても、日本語の文章が読める人なら迷ったりしないと思います。 で、大事なのはそこではなくて、それがこの連の最後にあるということです。 こんなことが書いてあるから、 この連の全体が、実は「私の心」について解説したものなのではないかと思うことができるってわけです。 夏が過ぎて、風あざみで、だれかのあこがれにさまよっていて、青空に残されている私の心が夏模様なのだと歌っている、ってわけです。 ふだん、私たちはたとえば友だちとしゃべっていて、いちいち自分の状況をこうして説明したりはしません。 私の心は夏模様だったよ!とか言わないでしょふつう。 夢は想い出のあとさきだとか絶対言わないわけです。 ふつうはそんなに、自分自身を突き放して解説したりすることはないのです。 でも、 この曲では自分自身の心を「夏模様」だと解説してくれています。 ここから、どんなことがわかるでしょうか? 私は、ここにとても切なさを感じました。 「私の心は夏模様」って解説してくれているのは、主人公が自分のことを突き放しているからです。 どうして突き放しているのかというと、それは、長い時間が経ったから、かな?と私は思いました。 主人公はもう少年時代から遠く離れた大人になって、懐かしい少年時代を懐かしんでいるのかな?と思ったのです。 がそうだとすると、はそれとは対照的な時制になるはず。 が過去なら、は現在になるはずですね。 それをさっきの表に組み込むなら、こんな感じになります。 夏 冬 青空 (日中を想起させます) 夜 風 窓を閉じて かがり 影 過去 現在 つまりこの曲、 で昔に思いを馳せたあとで現実に立ち返り、またで夢の世界へ旅立ったあとに再びで元に戻り、最後にもう一度で過去を振り返って、そのまま曲が終わる、という構成になっているのです。 すごいなそれ。 そして私は最後に、一人称に気づいちゃったのでした。 この曲の一人称は「私」です。 男性が「私」を一人称として使うのは、その人が十分に大人で、オフィシャルな場で自分を示したいときだけだと思います。 主人公はきっと、大人になったのです。 少年時代を思い返す時でも、その大人になった自分自身が歌詞の端からついにじみ出てしまいます。 でもだからこそ、遠く離れてしまった少年時代とのギャップが際立つのでしょう。 そしてだからこそ、少年時代が懐かしく思えるのでしょうね。 というわけで、『少年時代』でした。 一人称については、本当は違う読み方も考えたのです。 たとえば主人公は本当は女性で、少年のように振る舞うことができていた昔を懐かしんでいる、とか。 それでも十分にキレイに筋は通るのですが、女性である必然性も今ひとつ見当たらないので、今回は男性が主人公ってことにしてみました。 主人公と歌い手の性別についてはのときに考えたことがあるので、よければどうぞ。 宿題にしていた『』は次回かその次に持ち越しにしたいと思います。 読めそうな夏の曲がまだあったらそっちに浮気します。 ごめんなさいませ…。

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少年時代 歌詞 ほたる日和 ※ www.pathtravel.co.jp

少年 時代 歌詞

【文:郭家穎】 〈十個救火的少年〉 作詞:潘源良 唉呀呀唉呀呀呀 唉呀呀唉呀呀呀 唉呀呀唉呀呀呀 唉呀呀唉呀呀呀 在某午夜火警鐘聲響遍 城裡志願灌救部隊發現 站立在橋邊 十個決定去救火的少年 其中一位想起他少鍛鍊 實在是危險 報了名便算 另有別個勇敢的成員 為了要共愛侶一起更甜 靜悄靜悄 便決定轉身竄 又有為了母親的勸勉 在這社會最怕走得太前 罷了罷了 便歸家往後轉 十個決定去救火的少年 來到這段落 祗得七勇士 集合在橋邊 為了決定去救火的主見 其中三位竟終於反了臉 謾罵著離開 這生不願見 尚有共四個穩健成員 又有個願說郤不肯向前 在理論裡 沒法滅火跟煙 被撇下了這三位成員 沒法去令這猛火不再燃 瞬息之間 葬身於這巨變 在這夜這猛火像燎原 大眾議論到這三位少年 就似在怨 用處沒有一點 在這夜這猛火像燎原 大眾議論到這三位少年 亂說亂說 愈說祗有愈遠 十減一得九 九減一得八 八減一得七 七減一得六 六減一得五 五減一得四 四減一得三 三減一得二 〈十個救火的少年〉由達明一派主唱,發行於 1990 年《神經》專輯。 歷年在不同平台上備受討論及引用,論者常將之與六四事件扣連,說潘源良「以隱喻方式寫六四」,將之奉為「八九六四十歌曲」。 然而,這只是時代賦予〈十個救火的少年〉的意義,並非詞人的本意,以下先釐清〈十個救火的少年〉與六四的關係,再探其內容的一二。 這首歌在諷刺人性弱點上是無從否定,而有否針對性則有待商榷。 黃志華在 2006 年的網誌中提及,歌中反映「煩惱皆因強出頭」等負面的民族性,雖說「讓人想到六四事件前後的許許多多現實故事與人物」,但沒有指出歌曲的針對性,只表示歌詞令人產生聯想。 但在 2009 年的訪問中,黃志華明言「這唱片(達明一派《神經》)寫得較含蓄,也因為在事件後半年才出版,當中有更多的反思。 例如〈十個救火的少年〉,就寫到民運人士的潰散。 」直接把歌曲內容與六四事件相連接,而在同一訪問中,潘國靈亦持相同的看法,認為對於六四事件,專輯《神經》是以「抽象隱晦」的方法表達。 歌曲流傳下來,供大眾所聽,而時代的人當然會根據自己當前感覺,把情感投射在歌詞上,滿足自我期許,沒有對錯可言,只是偶然探索詞人的原意也無不可。 在 2013 年 6 月的電台節目〈音樂從呢道開始〉中,潘源良憶述,雖然確實創作原意已記不清楚,但此歌在六四事件發生前已開始構思,只因修訂、灌錄需時,才在六四後推出市場。 一開始,是基於節奏與歌詞長度為考量,再決定以十個少年的寓言故事作為內容,而深沉主題是潘源良的一貫風格,但對於針對特定事件,詞人更認為歌曲是敘述整個社會的氣氛,甚至反問主持「其實反映六四哪部分?」。 創作原意本來難以推敲,甚至詞人自己也難以說清,但我們亦能根據詞人的說法,排除一些可能性。 歌詞內容上,以嘉年華式的輕快節奏,訴說一個現實的寓言故事,反映人間百態及冷感。 歌詞中的少年對於火災,大多採隔岸觀火的態度,第二節,十人「站立在橋邊」,第六段餘下七人,仍「集合在橋邊」,第八節只有四人「又有個願說郤不肯向前」,直至徘徊不前。 人總離不開既有的安全界限,準備離開之時,就馬上忘了自己因聽到火警鐘聲,「志願」救火的初衷,趕忙回到情人、家人的身邊,不願冒險,而詞中各人的反應是每況愈下的。 第一個「報了名」,算是精神上支持,第二個「靜悄」地離開,也算有慚愧之心,不敢大搖大擺地離開,此後的轉身就走、以吵架作為掩飾,所謂的「穩健成員」也是紙上談兵,沒有實際行動,最後大眾甚至「在怨」葬身火海的三人「用處沒有一點」?歌詞呈現「等待」的含意,一眾人在橋邊等,沒有人前行,與六四向前推進的意識大相逕庭,十個人在等,然後慢慢離開,餘下的人,也不知道所等的是甚麼,只是苦苦的等待,然後被吞噬,面對這樣的社會,寧願茍且活下去,還是乾脆化身塵土? 星火燎原,〈十個救火的少年〉是基於人為因素而釀成的後果,而不是意外。 童謠的內容是有關九個印地安男孩,相繼因無妄之災死亡,最後一個男孩,不能承受來去一人的孤獨而懸樑自盡。 而小說中的角色與童謠所敘述一樣,接連死去,有預言的作用。 〈十個救火的少年〉既以此寓言包裝,不難發現詞人認為社會人情冷漠,會招致燎原性的惡果,少年在猛火當前,相互展示風度,沒有人願意先行,生怕先行者死,而最後三少年被大火吞噬後,眾說紛紜,無人同情,反而只管怪責,以事後孔明的姿態指指點點,詞中雖然沒有直接指出,但也明白「三減一得二」之後會是二減一得零,而童謠的末句「一個也不剩」,補足了歌詞的含意。 這首歌的寄寓大概是,如果大家仍是大難臨頭各自飛,即使你比誰都冷漠無情,成為了社會上最後站立的人,但無法生存下去,因為你親身殺害了社會,沒有相對的人,其實你甚麼也不是。 附錄: 《十個小黑人》的童謠: 十個印地安小男孩,為了吃飯去奔走;噎死一個沒法救,十個只剩九。 九個印地安小男孩,深夜不寐真困乏;倒頭一睡睡死啦,九個只剩八。 八個印地安小男孩,德文城裡去獵奇;丟下一個命歸西,八個只剩七。 七個印地安小男孩,伐樹砍枝不順手;斧劈兩半一命休,七個只剩六。 六個印地安小男孩,玩弄蜂房惹蜂怒;飛來一蟄命嗚呼,六個只剩五。 五個印地安小男孩,惹是生非打官司;官司纏身直到死,五個只剩四。 三個印地安小男孩,動物園裡遭禍殃;狗熊突然從天降,三個只剩兩。 兩個印地安小男孩,太陽底下長歎息;曬死烤死悲戚戚,兩個只剩一。 一個印地安小男孩,歸去來兮只一人;懸樑自盡了此生, 一個也不剩。

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