関ヶ原 の 戦い 布陣 図。 関ヶ原の戦い、有名なあのシーンはデタラメだった?徳川家康の通説のウソ

【動く布陣図】歴史上の人物・戦いの情報サイト|中部|桶狭間の戦い

関ヶ原 の 戦い 布陣 図

中国伝来の八陣図 「八陣図を考案したと言われる三国志の名軍師、諸葛亮」 日本で有名なのは、中国から伝わった 八陣図です。 8世紀頃には伝来していたそうですが、実は中国でも原型が固まっておらず、実態が明らかではありませんでした。 そのため、武田信玄に仕えた 山本勘助が、この作り直しを提案します。 そして彼が考案したものが、 「魚鱗・鶴翼・偃月・鋒矢・方円・長蛇・衝軛・雁行」の八陣でした。 これを 武田八陣形と言います。 この中でも合戦で良く用いられたものが、魚鱗の陣と鶴翼の陣です。 一方、側面や後方からの攻撃には弱くなります。 ただ、多くの兵が散らばらずに密集しているため消耗戦にも強いというメリットがあります。 【鶴翼の陣】 自軍を敵に対して左右Vの字型に広げた、最も基本的な陣形です。 鶴が翼を広げたように見えるため、鶴翼の陣と呼ばれます。 敵軍が前進・突撃してくれば、左右の翼に当たる部分で包囲して攻撃を加えます。 陣形が勝敗を左右!三方ヶ原の戦い 「三方ヶ原での敗戦後に家康が描かせたと言われる【顰像】」 武田信玄と徳川家康との間で行われた 三方ヶ原の戦いは、陣形が勝敗を左右したと言われる合戦の筆頭です。 兵力は、武田軍2万7千~4万、徳川軍は1万1千~2万8千と推測されています。 家康は、三方ヶ原を通過する武田軍を見て、家臣の反対を押し切り出陣したと言われています。 そして彼が取った陣形は、 鶴翼の陣でした。 一方、信玄は 魚鱗の陣で迎え撃ちます。 ここで気になるのは、両軍の陣形が定石とはまるで反対であることですね。 本来ならば、多数の武田軍が鶴翼の陣で徳川軍を包囲しにかかり、徳川軍は少ない兵力を集中させて中央突破する形だと思います。 家康は、武田本隊がすでに去っており相手が少ないことを想定したのだとか、勝ち目が無いとわかっていたからこそ、自軍を多く見せるために鶴翼の陣を取ったのだとか、諸説あります。 信玄の方も、徳川軍が鶴翼の陣であるならば、薄い中央を叩くために魚鱗の陣を取ったのだとする説もあります。 数的不利にありながら、戦端は徳川方から開いてしまったようです。 そのため、鶴翼の翼部分が攻撃を受けて総崩れとなり、元々が強兵で数も多い武田軍が徳川軍を圧倒しました。 そして家康は敗走し、三方ヶ原の戦いは武田方の勝利に終わったのです。 しかし、この戦いに関しては詳細が残されておらず、陣形以外のことはほぼ不明なのです。 陣形機能不全!関ヶ原の戦い 「関ヶ原の戦いにおける布陣図」 関ヶ原の戦いでは、西軍が笹尾山などの高所を押さえたことで、鶴翼の陣のような形になりました。 東軍は低地に入ってこなければならないので不利だったのですが、ここでは東軍の調略が物を言います。 西軍の小早川秀秋や吉川広家などが内通したため山から動かず、結果として鶴翼の陣は功を奏しませんでした。 そして西軍は敗れたのです。 いかがでしたか? 陣形を使うにしても、大将の意のままに動く兵がいないとダメだということですね。 関ヶ原のように大名が集結して戦う場合は、ちょっと難しかったのでしょう。 他にも数々の陣形がありますので、合戦でどのように使われていたか調べてみたくなりました! xiao.

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関ヶ原 の 戦い 布陣 図

関ヶ原の戦いとは (関ヶ原の戦い 出典:) 関ヶ原の戦いとは、1600年に今の岐阜県で起こった 徳川家康率いる東軍と 毛利輝元・石田三成率いる西軍が戦った戦のことです。 この戦によって徳川家康の天下は決定的となり、徳川幕府を開く要因にもなりました。 跡を継いだのはわずか6歳の 豊臣秀頼。 さすがの豊臣家も6歳の人に政治をさせようとするのはちょっと無理があります。 そこで秀吉は秀頼を守るために 五大老という制度を作りました。 この五大老は豊臣政権の中でも特に大物な大名であった 徳川家康・ 前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景 小早川隆景の死後は上杉景勝 の五人が秀頼のサポートをするというものです。 そしてこの五大老の中でも255万石と日本トップの石高誇っていたのが徳川家康でした。 一方石田三成の石高は16万石と家康の十分の一以下でした。 しかし、この石田三成。 とてもというほと諸大名と仲が悪い。 三成という人物は今でいうところの官僚みたいな人で大名などにいろいろ指示を出していました。 大名からすれば「三成は俺に偉そうに振舞っていてうざすぎる!」と思われても仕方ありません。 秀吉の死後家康は秀吉の遺言である 『勝手に婚約を結ばない』という約束を破ります。 それに対して前田利家はこれに対して抗議し家康と対立しましたが、運の悪いことに前田利家は1599年に亡くなってしまいます。 家康と豊臣家のストッパーの役割を果たしていた前田利家が亡くなったことによって石田三成を襲撃しようという計画がどんどん立てられていきます。 そして遂に加藤清正、福島正則をはじめとした七人の武断派の大名が三成を襲撃。 ここは家康が三成の隠居を条件になんとか取り持ったため事はおまりましたが、日本はここからどんどんきな臭くなってきます。 最初のターゲットは前田家でした。 家康は前田家に豊臣家に対して謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始め、前田家を潰すという脅迫までし始めます。 しかし、前田利家の妻である「 まつ」が家康の人質となってなんとか前田家はピンチを脱します。 家康はさらに五大老の一人であり、会津120万石の大名上杉家にも謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始めます。 しかし、上杉家はこのいちゃもんに真っ向から立ち向かいました。 上杉家には謙信公から引き継いだ義の心があるため野心丸出しの家康を許せなかったのでしょう。 上杉家は家臣の直江兼続が書いたとされる 直江状という家康を批判している手紙を送りつけます。 いわば宣戦布告です。 家康もこの手紙を読んで 会津征伐を決意。 諸大名を集めて会津へと出兵しました。 それは家康も重々承知のことで、伏見城に家康の親友であり家臣である鳥居元忠を置いて三成の動きを監視します。 そして遂に三成は大坂で挙兵。 同じく挙兵した宇喜多秀家、小西行長などと共に家康が留守の間に近畿を制圧しようと伏見城を攻めます。 結局伏見城は落城し、鳥居元忠が討死しますが、その知らせを聞いた家康は 小山 現栃木県 で緊急会議を開いて三成を討伐する決意を示しました。 石田三成率いる西軍は毛利輝元始め、 宇喜多秀家・小西行長・島津義弘・大谷吉継・小早川秀秋などの西日本中心の大名が集まっていました。 一方、徳川家康率いる東軍は 家康の家臣を始め、黒田長政・福島正則・藤堂高虎などの主に三成を嫌っていた大名が集まっています。 兵力の方は西軍は総勢約8万、東軍は総勢約7万から9万のどちらも互角でした。 布陣図を見てみると西軍は西側に一面に広がっており、さらに松尾山には小早川秀秋、南宮山には毛利や長宗我部などが構えているためもう少し頑張れば東軍を包囲できる状態です。 戦において包囲されたら負け確定ですので、この部分では西軍が勝っていたといってもいいでしょう。 それを表す証拠に明治時代にお雇い外国人としてドイツ人の軍人を呼び、この布陣図を見せてどっちが勝ったか予想させると『こんなの西軍の勝ちで終わったはずだ』と言ったそうです。 しかし、布陣図だけではわからない西軍の弱点があったのです... 一斉に宇喜多秀家を攻める東軍。 しかし、西軍は必死に東軍の攻撃に耐えてなんとか反撃しようとします。 なぜなら三成は「毛利や小早川が一斉に動けば絶対に勝てる!」と確信していたからです。 しかし全くもって小早川と毛利は動きません。 それもそのはず、その頃 毛利軍は弁当を食っていたのです。 まぁ、本当に弁当を食べていたのかは微妙なところですが・・・ 実は早く出撃したい長宗我部にいろいろめんどくさがっており、さらに東軍が勝った時の保険として毛利軍は取りあえず延ばし延ばしにするため「今兵士達は弁当を食べているから少し待って!」と苦し紛れに答えて動くことはありませんでした。 さらにとんでもない事態が西軍を襲います。 なんとここで小早川秀秋が裏切ったのです。 小早川秀秋が裏切ったことによって西軍は逆に包囲をされる側になってしまいます。 上にも書いた通り包囲された瞬間に負けは確定。 西軍はその通り大谷吉継が討死するなど壊滅的な被害を受けて崩壊しました。 なんで小早川秀秋が裏切ったというと、実は秀秋は 朝鮮出兵の時にヘマをしたとして三成によって領地を失ってしまいます。 しかし、これを家康がなんとかしてくれて秀秋は領地を取り戻すことができました。 そのため秀秋は三成のことを恨んで、逆に家康のことを恩人と感じていたのです。 三成のこの対応が 人生の大一番でツケとして現れたのです。 結局これが原因となり、 関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わりました。 西軍についた島津義弘は東軍の陣に突っ込んでなんとか逃げ帰った程の過酷なものだったそうです。 しかし、結局三成は捕まり三条河原というところで小西行長・安国寺恵瓊などと共に打ち首となりました。 家康は東軍についた武将たちに領地を与え、家康自身の領地も255万石から400万石までに増やしました。 その一方で西軍についた武将は改易や減封という処罰が待っていました。 直江状を送り家康に対立した上杉家 は会津120万石から米沢30万石に、西軍の実質的な総大将であった毛利家は 広島112万石から萩36万石など3分の2の大幅な領地を失いました。 宇喜多秀家は 岡山52万石が没収された上で八丈島に流され、長宗我部盛親は土佐を失ってしまい京都で寺子屋をやるようまでに落ちぶれてしまいます。 豊臣家も関ヶ原の戦いの戦いには参加していないものの、三成を討伐した大名たちに領地をあげるという名目のもとで 220万石から65万石まで減らされます。 これによって徳川家と豊臣家の勢力が逆転しました。 しかし、毛利家は関ヶ原の戦いから266年後には徳川家に勝利するのですから歴史というのは面白いものです。 これを 江戸幕府や徳川幕府と言います。 そして日本は約265年間徳川家の元で平和な時代が訪れることとなるのです。 まとめ.

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関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ

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戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた、 天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。 しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、 その詳細はあまり知られていません。 なぜなら「関ヶ原の戦い」があったのは戦国時代の終わり頃で、「」や「」、「」や「」などの戦国時代のヒーローは、みんな死んだ後だからです。 しかも関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、それまでの戦国の歴史と比べると複雑、おまけに戦闘は1日足らずで終わってしまったため、映画やドラマでもあまり取り上げられません。 ゲームでも「信長の野望」シリーズを含め、関ヶ原を扱ったものは少ないですね。 小説や歴史書では取り上げられる機会が多いのですが・・・ その内容は戦国時代に関する基礎知識が豊富でなければ、理解できないものが多いです。 そこでこのページでは、そんな「関ヶ原」の戦いと経緯を、あまり歴史に詳しくない方でも理解できるよう、出来るだけ解りやすく解説しています。 「関ヶ原の戦い」にまつわる時代背景を知る、参考にして頂ければと思います。 武将の顔の画像は「」および「」のものです。 「関ヶ原の戦い」の戦闘は1日で決着が着きましたが・・・ そこに至る過程は長く、色々な出来事が積み重なっていました。 戦国時代の後期・・・ がすでに天下を統一した後の 1598 年、その 豊臣秀吉の死によって、「関ヶ原」への経過が始まることになります。 すでに「豊臣家」によって天下統一されていた日本でしたが、その後に朝鮮半島に攻め込んだ「朝鮮出兵」などがあり、戦乱の時代はまだ継続していました。 そして秀吉の死後に豊臣家で日本を運営することになったのは、「 豊臣五大老」と「 豊臣五奉行」と呼ばれる人たちです。 この「五大老」と「五奉行」は、よく混同されたり間違われたりするので注意です。 (当時もよく間違われていたようです) 「 豊臣五大老」は、各地の有力な大名によって構成された「 権力者の代表」で、以下の5名です。 ・関東の五大老の筆頭「 徳川家康」。 ・北陸地方を支配する秀吉の親友であり盟友「 前田利家」。 ・中国地方の西部の大名「 毛利輝元」。 ・中国地方東部を支配し、秀吉に可愛がられていた「 宇喜多秀家」。 ・上杉家の後継者「 上杉景勝」。 (宇喜多秀家 の前に 小早川隆景 という人が五大老になっていましたが、秀吉より先に死んでいるので省いています) 「 豊臣五奉行」は豊臣家の中で実際に政務を取り仕切っていた「 豊臣家の上層部」であり、以下の5名です。 ・筆頭が「 石田三成」。 以下「増田長盛」「」「」「長束正家」。 さて、この五大老&五奉行の中で、関ヶ原の過程でもっとも主要な人物となったのが、 それぞれの筆頭である「 徳川家康」と「 石田三成」です。 徳川家康 豊臣秀吉 の死後、まず行動を起こし始めたのは です。 彼はそれまで豊臣家の中で勝手に行うことを禁止されていた、各地の大名や家臣への「婚姻(結婚)の斡旋」や「知行(領地)の授与」などを、五奉行に相談することなく独断で行うようになります。 もちろんこれに豊臣五奉行のメンバーは怒り、特に 五奉行の筆頭 石田三成 は 家康 を非難するようになるのですが・・・ しかしこの「」という人、 かなりの嫌われ者でした。 石田三成 彼はもともと豊臣秀吉の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、命令を各地に伝達する役目を持っていました。 そのため彼によって望まぬ報告をされ、処罰を受けた人が多くいたのです。 武将の失敗や失態などを、情けや釈明を無視してありのままに報告、それに対する処罰を告げ、それでいて自分は豊臣家のトップにいる彼は、そういう役目だから仕方ないのですが、多くの武将から陰口を叩かれまくる存在でした。 おまけに「官僚(政治家)」ですから、本人が合戦で戦って傷つくこともありません。 この点も実際に戦場で戦っている「武断派」の武将からは嫌われる点でした。 この影響で豊臣秀吉が生きている頃から、豊臣家の内部では 石田三成 を中心とする「官僚派(文治派)」と、 合戦で戦っている「武断派」の間で内部対立が発生していました。 この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」の主要原因となっていきます。 秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻や知行の斡旋などを行っていたのは非難されるべきものでしたが、それを受けた武将にとってはありがたいものであり、おまけに非難している石田三成サイドは嫌われていたため、武将たちはそれぞれ「家康派」と「三成派」に分かれていく事になります。 前田利家 しかし、それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした。 なぜなら 仲裁役として活動していた「」がいたからです。 彼は豊臣五大老の NO. 2 としての権力と、多くの武将や大名から慕われていた人徳を併せ持ち、事件が起こりそうになっても仲裁して大きなトラブルにならないよう配慮していました。 また、彼自身は徳川家康の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行に近い立場として、武断派の武将たちの暴発を抑える役割も果たしていました。 しかし、時は流れ・・・ 翌年 1599 年3月。 仲裁を行っていた「前田利家」も死去します。 そして仲裁役を失った豊臣家の内部分裂はどんどん激化し、ついに大事件が起こってしまいます。 「 石田三成 暗殺未遂事件」です! 豊臣家の武将として活躍しており、そして石田三成と対立していた 豊臣家の武断派の武将7名が結託し、石田三成を亡き者にしようと襲撃を計画したのです! その武将は「」「」「 黒田長政」「」「 細川忠興」「」「 浅野幸長」という名の、戦国の名立たる名将ばかり。 (記録によっては「 池田輝政」「」「 脇坂安治」という人も含まれる場合があります) しかし石田三成はそれを事前に察知、襲撃前に姿を晦まします。 このとき、石田三成 は 徳川家康 の屋敷に逃げ込んだとも、家康の子の「結城秀康」に仲裁を頼み、城や自分の屋敷に逃げたとも言われていますが・・・ いずれにせよ、ライバルである徳川家康がこの事件の仲裁をおこなって事なきを得ました。 武断派の武将としては、石田三成の対抗者である家康に「そんな事はやめときなさい」と言われると、断ることができなかったからです。 ですが、この事件が起こった事で石田三成は謹慎処分となり、一時的に失脚してしまいます。 そして 事件を解決させた徳川家康の影響力はさらに大きくなることになりました。 同時に、 豊臣家の「官僚派」と「武断派」の分裂は、もはや修復不可能なほどに決定的となってしまったのです。 が暗殺未遂事件で失脚すると、 はその代わりとして豊臣家の中枢であった「大阪城」に入り、自ら政務を指揮するようになります。 これによって徳川家康の権力はさらに強化されるものとなりますが、もちろん豊臣五奉行としては面白くなく、両者の対立がさらに深まっていきます。 そんなある日、徳川家康は豊臣五奉行を支持していた が死んだ後、その前田家を継いでいた「前田利長」と、豊臣五奉行の1人「」が結託し、「 徳川家康 暗殺計画」を計っていたと言う事を公表します! 浅野長政 これが本当だったのか、それとも家康サイドの策略だったのかは解りません。 いずれにせよ、この一件により五奉行の1人「浅野長政」は失脚。 さらに家康はこの計画をしていた「前田家」を討伐するとして、兵を集めて出陣の準備を進めます。 この騒動は、前田利家の妻であった「」が徳川家に自ら人質になりに行き、いち早く前田家が服従する姿勢を見せたため、沈静化しました。 ですが結果として、 徳川家康は豊臣五大老の NO. 2 だった前田家を従える事になり、さらに豊臣五奉行も弱体化させることになります。 人々の中にも、「天下はこのまま徳川家康のものになるのではないか(なっているのではないか)」 という風聞が広まっていくこととなりました。 そして、年月はついに 1600 年のお正月となります。 豊臣家の中で最も力を持つに至った「徳川家康」は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めました。 ところが、この挨拶を「 上杉家」だけは断り、さらにそれを伝える使者の家臣を謀反の疑いで処罰しようとします! 直江兼続 そのためその家臣は上杉家を出奔(離脱)し、家康に「(上杉家の当主)に謀反の気配があります」 と報告します。 元々、この前の年から上杉家が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、合戦の準備を行っているという話は流れていました。 そのため家康は、これらの件について釈明を求める手紙を出すのですが・・・ これに対する上杉家の重臣「」の返信は、以下のようなものでした。 「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。 そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。 前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。 あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」 これがすでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、 堂々と挑戦状を叩き付けた、有名な「直江状」です! この「直江状」の経緯については後世、様々な説や推測が飛び交っています。 「家康側はこうした返信が来るのを承知しており、上杉側はその術中にハマったのだ」という説もあれば、 「上杉家と石田三成がすでに連携していて、徳川家康を誘い出すために挑戦状を出したのだ」という説もあります。 もちろんやり取りの結果こうなっただけかもしれず、手紙の真偽を疑う説もありますが、ともかくこれが 「関ヶ原の戦い」の引き金になったことは確かです。 そして 徳川家康は「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐のために出陣する!」と、大軍を率いて大阪城を出発します。 そしていよいよ、時代は大きく動くことになります・・・ 時は 1600 年、6月のことでした。 徳川家康が家臣と共に軍勢を率いて出陣したことにより、大阪城には徳川派が一時的にいなくなりました。 大谷吉継 すかさず石田三成は行動を開始、友人の「 大谷吉継」を館に招いて今後を相談します。 この「大谷吉継」という人は豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わせたほどの名将でしたが、皮膚がただれて腐っていく「ハンセン病」という病気の患者であったため、あまり他の人が近寄ることはありませんでした。 しかし石田三成はそんなことは全く気にせず、大谷吉継と親交を深めていました。 そして三成はここで「家康打倒」のこころざしを語ったと言います。 その後、石田三成は豊臣五奉行の「 増田長盛」や、豊臣家の重臣で友人の「 小西行長」、豊臣五大老の大名家「 毛利家」 の外交僧「 安国寺恵瓊」などと相談、徳川軍を打倒する計画を立案します。 そして翌月 1600 年7月、 石田三成 はついに「徳川討伐」の挙兵を宣言! 「 内府ちかひの条々」を発表して諸国の大名に集結を呼びかけます。 「内府ちかひの条々」の「内府」とは徳川家康の事で、「ちかひ」とは「違い」、つまり間違っているという意味。 その内容は、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の前田家や上杉家を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、 大なり小なり様々な家康の罪状を並べたて、その討伐を訴えた文章(檄文)です。 そして豊臣五大老である中国地方の大名「毛利輝元(の孫)」を総大将として軍勢を準備し、西側の大名家が徳川軍に参加できないよう 関所を封鎖、さらに大阪城にいる 東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えます。 鳥居元忠 そして翌日、さっそく徳川軍の駐留部隊がいる京都の城「 伏見城」を総攻撃します! 「伏見城」には徳川家の重臣「」がいましたが、守備兵は 1800 ほどでした。 一方、攻撃側には1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢が参加して戦力がどんどん増加、伏見城側は多勢に無勢の状態になっていきます。 結果、伏見城は炎上して 鳥居元忠は戦死。 しかしその報告は、上杉家に進軍中の徳川軍に伝えられました。 徳川家康は京都での戦いの報告を受けて「小山」と言う場所で「評定(会議)」を開きます。 これは「 小山評定」と呼ばれる、有名な会議です。 福島正則 ここで「これから徳川軍はどうするのか」が相談されますが、最初に家康は武将達に「人質を取られて困っている者もいるだろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言します。 すると「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者の1人であった猛将「」が「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する!」と発言、同じく三成暗殺未遂メンバーだった「 黒田長政」がそれに続き、さらに織田家の旧臣だった「」が「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する!」と宣言します。 これらの発言で反対意見はなくなり、上杉家に進軍中の徳川軍は大阪方面に戻って、石田三成軍と戦うことが決定されました。 この時点で「 石田三成軍=西軍」「 徳川家康軍=東軍」という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定付けられます。 細川ガラシャ その後、東軍に参加した「細川忠興」の妻 「 細川ガラシャ(玉。 の娘)」 が「自分が人質となっては東軍にいる夫の邪魔になってしまうから」 と言い、屋敷に火を放って自ら死を選びます。 こうした話が伝わる度に東軍の結束は強まっていき、 石田三成が人質を取ったことは逆効果になっていきます。 ただ、戦国の名将「(の父)」だけは、当初は徳川軍に参加していましたが、 小山評定の際に徳川軍から離脱します。 これが後になって、徳川軍の行動に響くこととなりました。 さて、石田三成の挙兵を受け、その軍勢と戦うことにした徳川軍ですが、もともと上杉家を攻撃するために出発した軍勢ですから、上杉家をそのまま放置することは出来ません。 ヘタをすると西軍との戦闘中に背後を襲われる危険があります。 そのためここから徳川家康は、関東を中心とする各地の大名家に協力を要請、関ヶ原のための足場固めを始めます。 関東・東北地方で 西軍(石田三成側)と言えたのは、 上杉家と、もう1つ「 佐竹家」という大名でした。 一方、 東軍(徳川家康側)と言えたのは、上杉家と対立する「 最上家」と「」でした。 そこで徳川家康は、自分の息子で武勇が評判だった「 結城秀康」に佐竹家の押さえを命じ、そして最上家と伊達家の両大名家には上杉家への攻撃を依頼します。 上杉家は進軍してくるはずだった徳川軍を待ち構えていましたが、徳川軍は「小山評定」の後に引き返してしてしまい、同じタイミングで伊達家が上杉家への攻撃を開始、さらに最上家も上杉家への進攻を開始しようとします。 しかし上杉家は最上家が攻め込んでくる気配を察知すると、 や などを派遣して 最上家を先制攻撃。 最上家は追い詰められてピンチに陥ります。 しかし伊達家の は最上家の救援に向かい、そのまま戦いは激化、一進一退の攻防へ。 そしてこの激突が最も激しくなったのが、ちょうど西で「関ヶ原の戦い」が起こっていた頃でした。 結果としては、徳川軍は上杉軍に対する抑えは出来たことになります。 (上杉側としても、最上家・伊達家の抑えが出来た事になります) 一方、東軍の先鋒として「」の部隊が進軍を開始し、海沿いの東海道を通り、江戸から三河や尾張(愛知県方面)に一気に進んで、その周囲を押さえていきます。 徳川家康はしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていましたが、1ヶ月ほど経ってついに出陣。 本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が率いて東海道から西に向かいます。 もう一方の軍勢は徳川家康の次男で、徳川家の後継者でもあった「 徳川秀忠」が率い、「中仙道」という山間部のルートを通って西に進軍していきました。 ですが この「徳川秀忠」の部隊は、結果的に「関ヶ原の戦い」には間に合いませんでした。 なぜなら途中に、徳川軍から離脱して西軍に付いた ・ が守る「 上田城」という城があったからです。 この上田城には 2000人の兵がいましたが、徳川秀忠の軍勢は 3万8千、圧倒的な差です。 これなら秀忠軍は楽勝で城を落とせそうですが・・・ 名将「真田昌幸」の防戦の前に大苦戦! 秀忠軍の家臣も「ほっといて進もう!」とか「いや、落とせなかった恥になるぞ!」と意見が分裂して揉めまくり、おまけに「早く進め!」という家康の使者が大雨で遅れてしまいます。 徳川軍の兵力の半分はこの徳川秀忠が率いていましたから、 これが戦場に到着しなかったのは、徳川家康としては大誤算となりました。 しかし、徳川軍の他の方面の作戦は順調に進んでいました。 元々 西軍より東軍の方が協力者が多かったこともあり、尾張(名古屋)・美濃(岐阜) と西軍に味方した武将の城は次々と陥落していきます。 織田秀信 美濃の「岐阜城(稲葉山城)」は豊臣秀吉によって「織田家の跡継ぎ」とされていた、織田信長の孫である「 織田秀信(幼名、三法師)」が守っていましたが、多勢に無勢だった上に、この城はかなり長い間 織田家や豊臣家に使われていたため、内部の構造が知れ渡っていてあっさり陥落。 石田三成は「岐阜城はしばらく持ちこたえてくれるだろう」と思っていたので、これは三成側の誤算となります。 しかも、石田三成が主力と考えていた「豊臣五大老」の大名家「 毛利家」「 宇喜多家」の軍勢は、動きが鈍く、思ったような軍事行動が出来ていませんでした。 これは毛利家も宇喜多家も、当主を含めて武将の多くが「二代目」であり、戦国時代を生き抜いた経験豊かな武将が少なかったためのようです。 また、徳川側からの再三の寝返り要請があったことや、石田三成の人気がなかったことも影響し、武将や兵士の「やる気」に問題があったとも言われています。 さらに「豊臣五奉行」の1人であり、石田三成と共に西軍の軍事計画を立てていた「増田長盛」でさえ、実は徳川家康に内通していて、西軍の軍事計画を東軍に報告したりしていました。 すでに「情報戦」の面で、西軍は東軍に劣っていたと言えます。 石田三成は徳川軍の京都・大阪への進軍を止めるべく、関ヶ原の近くにあった「 大垣城」という城に入ります。 東軍もこの大垣城に進軍していき、いよいよ舞台は決戦の地「 関ヶ原」へと移ります。 戦場に到着した東軍(徳川側)は、まずは大垣城の近くに布陣します。 1600年、9月14日のことでした。 (1600年 9月14日 夕方) 徳川家康の本隊の進軍が思いのほか早かったため、急に増強された東軍を見て西軍(石田三成側)の兵は動揺を隠し切れません。 しかし、これを沈めようと立ち上がった男がいました。 勇将「」です。 名将として名高かった彼は、石田三成から「私の知行(領地)の半分以上をあげるから、ぜひ家臣になってくれ」という破格の申し出を受けて感動し、石田三成のために尽くしていた武将です。 そして島左近は、西軍の兵の動揺を鎮めるには「勝つ事」しかないと考えます。 彼はさっそく兵の一部を率いて東軍の陣の前に向かい、敵を挑発します。 島左近 この挑発に怒った東軍の部隊が島左近の兵に襲いかかり、その勢いに押されて左近の軍勢は後退してしまうのですが、これは全て作戦の内。 敵をおびき寄せた所で伏兵で敵の背後を遮断し、そのまま孤立した相手を包囲攻撃! おびき出された東軍の部隊は壊滅し、それを見ていた西軍の兵は奮い立ち、動揺も鎮まったと言います。 この戦いは関ヶ原の前哨戦となった「 杭瀬川の戦い」と呼ばれています。 その後、東軍と西軍はにらみ合いが続き、そのまま夜になりました。 その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた 島津軍 や などの西軍の武将たちは「士気も上がっており、見通しも悪いので、城を出て夜襲で勝負をかけましょう」と石田三成に進言しますが、三成に却下されてしまいます。 石田三成陣営、徳川家康陣営、双方ともこの夜にどう動くか色々と思案していたようですが・・・ その行動は、全く別の人物によって大きく動かされることになりました。 豊臣秀吉の養子であり、関ヶ原の戦いのキーポイントとなった人物「 小早川秀秋」という人です。 小早川秀秋 この「小早川秀秋」と言う人は豊臣秀吉の養子で、秀吉に大変可愛がられており、一時は豊臣家の跡継ぎ候補でもあった人物です。 その後に元・豊臣五大老である「小早川隆景」という人の養子となり、大名であった「小早川家」を継いでいて、この小早川家は西軍の総大将とされた「毛利家」の家臣でもあるので・・・ つまり小早川秀秋は、 血統的にも立場的にも西軍に属するべき人でした。 ところが彼は・・・ 大の 石田三成 嫌いでした! と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の失態を石田三成が豊臣秀吉に詳細に報告し、彼は秀吉におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたからです。 しかもそのあと、彼と秀吉の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ徳川家康でした。 そのため彼は徳川側の東軍に付こうとしていたのですが・・・ なにせ立場的にはどう考えても西軍にいるべき人。 おかげで西軍として出陣することになってしまい、しかも石田三成から「最上位の役職を約束します!」とか「領地大幅アップ!」とか 色々と西軍に残るよう説得を受けます。 しかし徳川家康も当然のように「一緒に戦いましょう!」と使者を送っており、 彼はどっちに付くべきか悩んだまま、「関ヶ原」の日を迎えていたのです。 そしてそんな小早川秀秋が、島左近が「杭瀬川の戦い」で戦っていた 9月14日、 1万5千の大軍を率いて突然 関ヶ原の近くの「松尾山」という山に移動したため、事が動き始めます。 「松尾山」という山は西軍のいた「大垣城」の西にありました。 ここには西軍の別の部隊が駐留していたのですが、いきなり動き出した小早川秀秋の軍勢が、 勝手にその部隊をどかしてそこに居座ってしまいます。 「裏切りそうな人」が自分たちの側面の山にいきなり布陣したことは、西軍の石田三成たちに不安を呼びました。 一方、東軍は・・・ 城に篭っている西軍を、何とか城からおびき出したいと思っていました。 そのため「 東軍は大垣城を包囲したまま、本隊は大阪方面に進軍を続け、大阪と京都を制圧しようとしている」 という噂を西軍に流していたと言われています。 そんな時に、寝返ってくるかもしれない小早川秀秋が松尾山に移動して、居座ります。 (1600年 9月14日 夜) 西軍は小早川秀秋ににらみを利かせるためだったのか、それとも移動した小早川秀秋の軍勢を利用しやすい位置に移動したのか、はたまた「東軍は大垣城を包囲したまま大阪に向かおうとしている」という噂に影響されたのか・・・ その夜、 大垣城を出て、夜の雨にまぎれてこの松尾山の近くに移動し始めます。 この移動を東軍も察知。 城攻めを避けたいと思っていた東軍には絶好の機会ですから、すぐにこれを追いかけ、両軍は関ヶ原へと向かうことになります。 (1600年 9月15日 早朝) 「関ヶ原」に到着した両軍の布陣図は、このような感じでした。 青が東軍、 赤が西軍の部隊です。 (解りやすくするため、細かい武将の配置図などは省略しています) 右の地図には表記していませんが、西軍の勇将「」は石田三成の本陣のすぐ前に布陣していました。 東軍の本陣近くには、戦国最強と呼ばれている「」や、赤備えの猛将「」などの部隊も控えています。 見ての通り、関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している形です。 これは誰がどう見ても「西軍有利」です。 実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうです。 ですが、戦いはその通りにはなりませんでした・・・ 戦いは夜明けと共に始まりました。 まずは、先鋒を任された東軍の「」と、西軍で最も大軍を率いていた豊臣五大老の1人「 宇喜多秀家」の軍勢が戦闘に入ります。 福島正則の部隊には槍の名手「」などもいて、強力な部隊と思われていたのですが、宇喜多軍にも「 明石全登」という勇将がいました。 この人は「キリシタン武将」として知られていて、後の「大阪の陣」で十字架とキリスト像を掲げた日本版「十字軍」を率いて戦ったという、ちょっと変わった人です。 東軍の主力の1つである福島正則の部隊は、明石全登を擁し、兵力も多い宇喜多軍に苦戦、 一進一退の状況が続きます。 黒田長政 その後、石田三成の本隊に、東軍の「 黒田長政」「 細川忠興」「 加藤嘉明」などの部隊が攻撃を開始します。 この人たちはみんな 「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者であり、石田三成に恨みを持っていた人たちばかりで、そのため西軍本隊の正面に配置されていたようですが、石田三成の本陣の前には「 島左近」が立ち塞がっていました。 ところが・・・ 島左近は開戦早々に黒田長政の鉄砲隊の銃撃をまともに受けて重傷! 本陣に担ぎ込まれてしまいます。 石田三成にとって、 最も頼りにしていた武将の1人である島左近が、開戦直後に戦闘不能になってしまったのは大誤算と言っていいでしょう。 その後、石田三成は自分の部隊でなんとか本陣を維持するべく、奮闘することになります。 当初、東軍はそこまでの経緯から「西軍は戦闘になるとあまり強くないだろう」と思っていたのですが、 西軍は予想外に善戦して戦況は互角、むしろ西軍がやや押しているような状況となります。 (島津義弘) そこで石田三成はさらに戦況を有利にするべく、本陣の近くの「」の部隊に攻撃を依頼します。 この「」と言う人は鹿児島からはるばるやってきた援軍で、数々の合戦で活躍、その兵の強さは日本中に轟いていました。 ところが、 島津軍は進軍要請を拒否します。 と言うのも、島津義弘は豊臣家への義理を果たすため西軍に参加していましたが、元々は徳川家康に味方するために出発しており、石田三成の態度も嫌っていて、全面的に協力している訳ではありませんでした。 島津軍は開戦直後から徳川家の「」の部隊と戦っていましたが、朝鮮出兵での被害が大きかったため兵力は少なく、そのためか 石田三成も見下していたと言われています。 また、開戦前の夜に東軍への夜襲を最初に進言したのは島津軍の武将(島津豊久)で、これを三成は却下していました。 進軍要請に来た使者の態度が無礼だったという説もあります。 これらもあって、島津義弘は「まだ討って出るべきではない」と判断、ここで動くことはありませんでした。 島津義弘はこの関ヶ原で、西軍の勝利よりも 「島津家としての戦いをする」ために戦っていました。 島津軍 に要請を蹴られた石田三成は、次に徳川軍の後方に位置する「 南宮山」に大軍を率いて布陣していた「 毛利軍」に、進軍を要請します。 (1600年 9月15日 朝) この軍団は西軍の総大将とされていた「 毛利輝元」が派遣した部隊であり、進軍の要請を受けて進もうとしたのですが・・・ ここで毛利軍にいた「 吉川広家」という人の部隊が突然 反逆します! 命令を出しても全く言う事を聞きません! これにより毛利軍の本隊は、味方(吉川広家軍)が邪魔で進軍できなくなります。 そして同士討ちを避けたい毛利軍の大将「 毛利秀元」は、再三の出陣要請に対し、苦し紛れに「 弁当食べてるからダメ」と答えます。 (「宰相殿の空弁当」事件) 毛利家にはかつて「小早川隆景」「吉川元春」という名の2人の重臣がいました。 しかし2人は戦国時代の後期に考え方の違いから遠ざかり、その影響で毛利家の内部も2派に分かれていました。 吉川広家 そして毛利家を西軍として参加させた外交僧「 安国寺恵瓊」は小早川派と言える存在でしたが、 吉川広家は吉川元春の子であり、小早川派の考え方には反対していました。 そのため徳川家康に早い段階で接近し、東軍側の存在となっていたのです。 しかも彼は「 東軍が勝った後、毛利家の責任は問わない。 領地もそのまま保障する」という約束まで取り付けていたといいます。 この吉川広家の寝返りによって、毛利軍はほとんどまともに戦わないまま、関ヶ原の戦いを終えてしまいます。 結局、毛利家は「西軍・総大将」という事になっていましたが、実際には 総大将らしいことは何もやっていません。 この方面には四国・土佐の戦国大名「 長宗我部家」の部隊も西軍として参加していましたが、これも元々は東軍に参加する予定で、関所が閉鎖されていたため東軍に合流できず、仕方なく西軍に入っていた部隊でした。 おまけに前面の毛利軍がヘンなことになって動けなくなり、結局これも最後まで戦うことなく終わっています。 島津軍に続いて毛利軍も動かないため、石田三成は関ヶ原の側面、松尾山の上に布陣している「 小早川秀秋」に進軍を要請します。 しかし小早川秀秋は前述した通り、西軍として参加はしたものの、実際には大の石田三成嫌い。 しかも戦闘中、東軍からも「早く寝返って!」という要請を受け続けていました。 彼が布陣していた「松尾山」という場所からは、関ヶ原の様子が一望できます。 彼は有利な方に付きたいと思っていたようですが、目の前の戦いは一進一退のまま、なかなか優劣が付きません。 その様子を見ていてついに痺れを切らした徳川家康は・・・ ここで「賭け」に出ます。 なんと 小早川秀秋の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃したのです! 東軍から鉄砲を撃たれたのですから、怒って西軍に付きそうですが、「家康が怒っている!」とビビった秀秋は、あわてて 寝返りの準備を始めます! この鉄砲の話は創作だと言う説もありますが、徳川家康が小早川秀秋が小心者であることを見越して行った催促だったと言われています。 (1600年 9月15日 昼前) そして迷いの吹っ切れた 小早川秀秋は、ついに1万以上の軍勢を率いて寝返りを宣言! 目の前の西軍の部隊に襲いかかります! ところが、これを予測していた人物がいました。 石田三成の盟友「 大谷吉継」です。 彼は小早川秀秋や、西軍の武将が寝返る事は薄々わかっていたようで、最初から 小早川秀秋が寝返った時にそれを抑えられる位置に布陣していました。 そのため小早川秀秋の部隊はこれに迎撃され、押し戻されてしまいます。 しかし大谷吉継の誤算はこの後でした。 彼と共に小早川秀秋を抑えられる位置にいた西軍武将まで、 小早川秀秋と一緒に続々と東軍に寝返ってしまったのです! すでに彼らの所にも開戦前に寝返りの使者が訪れており、最初から内応していた者もいたのです。 その結果、大谷吉継の部隊は包囲されて集中攻撃を受け、孤軍奮闘するも壊滅。 吉継もついに戦場に消えてしまいます。 大谷軍の消滅により、小早川秀秋の軍勢は寝返った部隊と共に再び進軍を開始。 西軍の側面を突き始め、 「関ヶ原の戦い」の優劣は、これでほぼ決定しました。 関ヶ原の前線では、まだ両軍の一進一退が続いていました。 石田三成は何とか東軍の本陣を狙おうと迂回部隊などを出しますが、 などに撃退されています。 宇喜多秀家の軍はまだ善戦を続けていましたが、 小早川秀秋の軍勢がやってきて包囲され始めたため、そのまま瓦解。 戦線を維持できなくなり、明石全登をしんがりにして戦場から退却します。 (1600年 9月15日 昼) 島津軍も最後まで善戦していましたが、西軍が崩壊し始めたため撤退を決意。 しかもなんと後ろに下がるのではなく、 前面の敵に突っ込んで突き抜ける「敵中突破」を開始します! そのあまりの突撃に、その前にいた徳川軍はあっという間に蹂躙され、側面にいた福島正則の部隊もあっけに取られて防ぐ事が出来ず、徳川軍の井伊直政が追撃するも負傷してしまいます。 その後、島津軍は大きな被害を受けながらも戦場を離脱し、本国へと帰還していきました。 こうして、残された 石田三成の本陣も徳川軍の総攻撃の前に、ついに壊滅・・・ 「関ヶ原の戦い」は決着が着くことになります。 1600年9月15日 の昼、開戦から約半日。 様々な出来事があった日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」は、約6時間ほどで決着となりました。 西軍・大将 石田三成 は敗戦後に逃亡していましたが、数日後に追っ手に捕まってしまいます。 そして「関ヶ原の戦い」に至る計画を立てた「安国寺恵瓊」「小西行長」と共に、京都引き回しの上、 処刑されてしまいました。 他の豊臣五奉行は、「長束正家」という人だけは敗戦後に自害しましたが、徳川軍に情報を流していたり、東軍に協力した他のメンバーは、謹慎処分で済んだり、領地を保障されたりしています。 対徳川の中枢であったはずの豊臣五奉行も、 すでに開戦前に崩壊していたと言えます。 西軍に味方した武将や大名はほとんど処罰対象となり、吉川広家が「領地を保障する約束」をしていたはずの「毛利家」も、戦後に約束を破棄され大幅に縮小されてしまいます。 逆に、東軍に味方した武将には多くの領地が与えられ、そのほとんどが大名に出世しました。 関ヶ原の勝敗を決定付けた「小早川秀秋」にも多くの領地が与えられ、大大名に出世しましたが、関ヶ原での裏切りや醜態は世間の噂になり、 非難や中傷の的にされてしまいます。 結局、彼は酒びたりの生活となり、関ヶ原から2年後、狂死してしまったといいます。 「」の島津軍は、関ヶ原から脱出して本国・薩摩(鹿児島)に戻りますが、九州では東軍の味方を宣言した豊臣秀吉の元軍師「 黒田如水(黒田官兵衛)」が西軍に付いた「 立花宗茂」などと合戦を繰り広げていて、島津軍も加わって一触即発の状態となります。 しかし関ヶ原の戦いが終わったあと、徳川家康からの停戦命令が届き、合戦は中止。 黒田如水は「 関ヶ原の裏で天下を狙っていた第三の男」とも言われていますが・・・ 関ヶ原が1日で終わったのは、彼にとっても想定外だったようです。 「宇喜多秀家」は島津家に逃亡しましたが、その後に出頭し、 島流しの刑になります。 この時の、妻であり前田家の姫である「豪姫」との別れは、戦国の悲恋物語として有名です。 上杉家と伊達最上連合軍との間で行われていた東北地方の合戦は、関ヶ原の西軍敗北の知らせを受けて、上杉軍が や をしんがりにして撤退。 その後、上杉家は徳川家に謝罪して関係の修復に務め、領地は大幅に縮小されますが、大名家としては存続しました。 東軍に協力した伊達家・最上家は領地の増加を受けています。 ただ、伊達政宗は開戦前に家康と「伊達家100万石」の約束をしていましたが、そこまでは与えられませんでした。 そして 「豊臣家」は大幅に縮小されて大名家の1つとなり、 徳川家康の元に天下は再び統一されます。 関ヶ原の戦いから3年後の 1603年、「 江戸幕府」が開かれ、日本は「江戸時代」に入りました。 この後、豊臣家は徳川家への臣従を拒否し「」に向かうため、豊臣 VS 徳川の戦いはもう一波乱起こるのですが・・・ ともあれ、群雄割拠の時代は終わりを迎えることとなります。 以上が「関ヶ原の戦い」 の概要です。 石田三成と他の「武断派」の武将の対立は、「朝鮮出兵」の中で起きました。 石田三成はその朝鮮出兵の「総奉行」であり、戦いに参加した武将たちの詳細を 豊臣秀吉 に報告する役目にありましたが、それは武将の失敗を報告する役目でもありました。 もちろん功績も報告していましたが、監督である彼の評価と、武将が自分で思っている評価はやはり異なることが多かったようで、戦場で戦った武将には三成が「自分の功績を過小に報告している」と映ってしまったようです。 石田三成に対する評価は後世、真っ二つに分かれていますが、彼が優秀な官僚であった事は間違いありません。 また、多くの武将に嫌われた彼に対する誹謗中傷はかなり激しかったようで、そうした中傷や噂が、彼の人物像を過度にゆがめていた現実もあるようです。 一方、徳川家康は朝鮮出兵による戦乱の継続、それにより発生した修復しがたい豊臣家の内部対立・・・ それらを間近で見る立場にありました。 そのことが、彼を「天下人」の道へと走らせたのかもしれません。 「関ヶ原の戦い」で戦った二人は、おそらく共に、日本の今後の事を思って戦っていたのでしょう。 C 2004 KOEI Co. ,Ltd. 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